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執念の合意、移設先で迷走 ・・・「普天間返還、沖縄の強い希望だ」(96年2月 橋本首相)

■政その瞬間・インタビュー「直前まで苦悩 現状は残念」江田憲司・元首相秘書官(日経6/14・14面)

「(橋本元首相の秘書官として)『基地問題以外にも目を向けて下さい』と言うくらい心血を注いでいた。沖縄で戦死したいとこへの思いが原点だ。首脳会談で『普天間』を口にするのは直前まで悩んでいた。合意発表の会見後は抱き合って喜んだ。あれほど沖縄に真摯に向き合った首相はいないだけに、現状が残念でならない」(インタビューを電子版に▼Web刊→紙面連動)

江田憲司氏「橋本首相は大田知事と17回会った」Web刊→紙面連動

 1996年4月、当時の橋本龍太郎首相は米政府と1カ月半の交渉を経て米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の全面返還で合意した。沖縄の思いにこたえたつもりだったが、基地の代替施設を巡る地元の反対などで膠着し、志半ばで退陣した。政務担当の首相秘書官として橋本氏を支えた維新の党の江田憲司前代表に橋本氏の思いを聞いた。

 ――橋本首相は沖縄問題に大変な思い入れを持っていました。

 「少年時代、継母が来てぐれてしまった橋本さんに唯一、優しくしてくれたいとこが戦争で亡くなったが、その場所が沖縄だということを戦後に知った。それが原点だ。『基地問題以外も目を向けてくださいよ』というくらい心血を注ぎ、書物や外務省のレク資料などを持ち帰って首相公邸で読みふけっていた」

 ――転機は96年2月、米サンタモニカでの日米首脳会談ですね。

 「その前に、当時の沖縄県知事の大田昌秀さんから、官僚ではなく(沖縄財界と関わりのあった)経済界の人を通じて、3つのメッセージが届いた。1つめは『橋本龍太郎という政治家を尊敬している』。2つ目は『私は嫌米、反米ではない』。そして3つ目は『普天間基地返還を首脳会談で話題に出していただければ県民感情が和らぐ』だった」

■クリントン大統領が後押し

 ――それがきっかけで「普天間」を議論のテーブルに乗せたのですか。

 「当時の外務、防衛の担当者は猛反対した。橋本首相が『普天間基地の返還をどう思うか』とたずねると『日米同盟を重視するならば、戦略的な要衝の基地を米国が返すわけない』だとか『安全保障も知らないとバカにされる』など、とにかく消極的な意見が多かった。首相もぎりぎりまで迷っていた」

 ――それでも首脳会談で口火を切ったのは。-

 「当時のクリントン米大統領の後押しがあったからだ。会談の最後に『沖縄の問題で何か言い残したことはありますか』と言われ、首相は意を決して『難しい問題だと承知しているが、普天間を返してほしいというのが沖縄の強い希望だ』と話した」

 「大統領は『普天間』という単語自体を知らなかったようだった。私は『その聞き慣れない4文字を耳に残しただけで、会談は成功ですよ』と首相に伝えた」

 ――会談から約1カ月半で返還合意に至った経緯は。

 「大統領は会談の3日後、当時のペリー国防長官に返還に向けた調整を指示した。日本にとって幸運だったのは、ペリー氏が沖縄での従軍経験があったことだった。それが奏功し、3月下旬には外交ルートを通じて『普天間を返す』と伝えてきていた」

 ――モンデール駐日米大使との共同会見ではどんな様子でしたか。

橋本首相とモンデール大使は、普天間基地の全面返還で正式合意し、共同記者会見に臨んだ(1996年4月、首相官邸)

 「没頭して心血を注いで結果が出たので、望外の喜びのようだった。公邸で待ち構えて
いた私は、会見後に戻ってきた首相とどちらからともなく抱き合って喜んだ」

 「正式に返還合意した後、大田知事に電話した。『沖縄の皆さんがこれを喜んでくださると信じている』と感無量のようだった」

 ――合意以降、普天間基地の移設先を巡る協議は難航しました。

 「代替機能を沖縄県内に設けることが返還の条件だった。嘉手納基地との統合案もあったが、米軍内事情もあり頓挫し、キャンプ・シュワブ沖(現在の名護市辺野古沖)が有力となった。私が提案した海上基地を建設する案には首相や梶山静六官房長官も『それはいい』と同調してくれた」

■市長の決意に最敬礼

 ――地元・沖縄県内の根強い反対にはどう対峙しましたか。

 「地元との調整は梶山長官らが中心にやってくださったが、首相も大田知事とは沖縄と東京で約2年で17回、2人きり膝詰めで会っていた。結果的には平行線だったが、首相は一切激高することもなく常に下手に相対していた」

 「97年12月24日、比嘉鉄也名護市長が首相官邸を訪れた。直前の(代替ヘリポート建設の是非を問う)住民投票は反対多数だったが、市長は『私は知事の判断がどうであろうと、移設を容認する。首相が心より受け入れてくれた普天間の苦しみに応えたい』との決意を伝えてくれた。首相はすくっと立ち上がり、最敬礼をしたのを覚えている」

 「市長は続けて『その代わり私は腹を切る。場所は官邸、介錯(かいしゃく)は家内、遺言状は県北部やんばるの末広がりの発展だ』と語った。首相も、同席した野中広務幹事長代理も泣いていた」

 ――いまも普天間返還が実現していないことをどう思いますか。

 「草葉の陰で橋本さんの思いは察するに余りある。歴史のボタンの掛け違いで、あの時に移設容認派の知事であれば、とっくに実現していた。あれほど沖縄に対して、虚心坦懐(たんかい)に胸襟を開いて真摯に向き合った人はいないだけに、非常に残念だ」

 ――安倍政権は沖縄の基地問題にどう向き合うべきだと思いますか。

 「首相と県知事が2人で会う機会を何度も作らないといけない。ボーリング調査はいったん止めて、静かな環境で議題を設けず、酒食を共にしながら胸襟を開いて話すことが大事だ」(聞き手は秦明日香)