親の体罰禁止、法制化が進む中で「しつけ」の概念はどうなるか

政府は19日に行われた閣議で、児童虐待防止法や児童福祉法の法改正を決定しました。2019年早々から児童虐待事件が相次ぎ、逮捕者が後を絶ちません。実際に子どもを育てている親御さんからは様々な意見が飛び交い、「しつけ」の概念が変わろうとしています。

しつけに「絶対に」暴力は必要ない?児童虐待と体罰を考える

福祉系の大学で児童福祉を専攻してた方が、こんな風におっしゃっていました。

「虐待する親には、2つのタイプがあります。ひとつは、自分が精神病を患っていることに気付かず、子育てにより、より病状が悪化してしまった結果、虐待に至るタイプです。もうひとつは、性癖として虐待を行うタイプです。前者は治療により正常な判断を身に付けられる可能性もありますが、後者の性癖は病ではないので、治すという話ではないのです。」

2019年1月に大きなニュースとなった千葉女児虐待死事件では、父親の異常な性癖が明るみに出ました。自身の子どもを虐待している様子を動画で撮影し、父親は虐待を楽しんでいたことが分かっています。また、そばにいたはずの母親は、夫(父親)の暴力により、正常な判断ができない状態であったことも判明しました。

性癖は千差万別で、他人にはなかなか理解できない部分もあります。しかし、中にはこの父親のように、弱いものをいじめて楽しむ性癖を抱えている方もいます。困ったことに性癖は病気ではないので、治療すれば治るというものではないのです。

なにに幸せを感じるかが人それぞれであるように、なにに快楽を感じるかも人それぞれです。虐待する親の中には、子どもをいじめることで快楽を得るタイプが存在することを覚えておいてください。

精神病や異常な性癖を抱えた親は、どうすれば正常に戻るのか

「悪いことをしたら、刑務所にぶち込めばいい。」それではなにも解決しないのが、児童虐待です。薬物事犯も同じですが、根本的な解決を目指すのであれば、罪を償わせるのと同じくらい精神状態を正常に戻す「治療」が必要です。

しかし、国が虐待を行う親への治療はしていません。あくまでも一介の医師が、自身のクリニックなどで、精神病患者同様に、虐待してしまう親への治療を行なっているのが現状です。

これには大きな問題がふたつ伴います。ひとつは自身で自分の問題に気付き、病院まで足を運ぶ必要があります。しかし、虐待によって死まで追い込むほどの親が、自分の足で病院へ行き治療を受けるとは思えませんよね。

もうひとつは、治療の過程で医師やカウンセラーの言葉に激昂し、治療を中断、子どもとカウンセラーを引き離す親が存在することです。せっかく差し伸べられた手も、振り払われてしまっては治療が意味を成しません。

では、無理矢理にでも治療を受けさせるのかというと、そういったことを「強制」できる法律は日本には存在しません。親が拒絶すればそれまでの話で、虐待死が起こるのはその後です。

先ほども述べたように、精神病によって虐待している親には治る可能性があります。医師の元で適切な治療を受ければ、正常な判断を取り戻すことができるのです。しかし、性癖で虐待を行う親には、治すという概念が当てはまりません。

「自身が快楽を感じるために子どもを利用し、虐待することで欲を満たす」というのが、虐待に快楽を感じる性癖を持つ人の考え方です。そこに悪意もなければ、相手に対して思いやりも存在しません。ただただ自身の快楽を満たすためだけの行動であり、それが間違っているか正しいかを判断することができないのです。

大量殺人を行う人や人肉を食する人も、同じような性癖を抱えています。彼らを「正常な人間が持つ性癖」に変えることは、正直にいって不可能です。

一部ネットの声にあるように、「一生檻の中から出さない」というのは、ある意味で正しい判断なのかもしれません。これ以上悲劇を増やさないためにも、異常な性癖を抱えた親を隔離することで、社会全体の「生きやすさ」につながるのではないでしょうか。

言っても分からない子どもが存在するのも、事実である

とはいっても、綺麗事だけでは済まないのが育児です。子ども特有の「イヤイヤ」は、幼児だけでなく、小学生になっても中学生になっても続きます。分かっているはずなの子どもはそれを認めず、親に対し全力で「イヤイヤ」を発揮することがあります。言い方は違えど、思春期に非行に走る子どもにもそれが当てはまります。

一昔前まではそんな子どもに対し「言っても分からないのなら、叩くしかない。」という概念がありました。教師が手をあげるのは普通のことであり、時には大人が力を利用して、して良いことと悪いことを教える時代がありました。

しかし、今月19日の閣議で親の体罰を禁止する法制化が決定しました。これにより教師はもとより、親の体罰も禁止されたのです。

恐怖や苦痛は、人生には不必要かもしれません。誰もが幸せと喜びだけに満ちた人生ならば、それ以上に幸せなことはありませんよね。

ですが、社会で暮らしている以上、接する人や機会は必ずあります。そんなとき、何が良くて何が悪いかを学べていない子どもは、孤立を避けられません。しつけに暴力は「絶対に」必要ないのかと問われると、絶対とはいえない「矛盾」が、育児にはあるのではないでしょうか。

子育てには正解も教科書も存在しない、理想的な「しつけ」とは

筆者は、あまりいい子どもではありませんでした。非行に走り親子関係に長年悩み、笑い合えるようになったのは成人してからずっと先のことです。

そんな子どもを持つ母は、こんな風に言っていました。

「みんなが、親である私の育て方が悪いと責めた。だからといって、正しい育児を教えてくれる人はいなかった。結局正解も不正解もなければ、教科書も存在しない。だから自分で考える他になく、今になっても私の育て方が正しかったとは言い切れない。」

「うちはうち、他所は他所」という言葉があります。育児はまさにこの言葉通りで、それぞれの家庭にそれぞれのやり方がありますよね。一概に間違っている、正しい、とは言い切れないのが、育児のもどかしいところです。

そのもどかしさは時に、親の首を絞めることにも繋がります。実際、私の母は、非行に走る私を見て、自分が悪いのかと自身を責めている時期もありました。子どもとして「そうじゃないんだよ」と言いたいのに、親子の間にできた溝がそう言わせない意地を張らせました。

自身の首を絞める親は、どんどん追い詰められていきます。そこへ追い打ちをかけるように、「育て方が悪い」なんて言われた日には、自分自身を見失ってもおかしくありません。

では、理想的な「正しい育児」というのは、存在するのでしょうか。

同じ親から生まれ同じ育児を受けた兄弟ですら、違いが出る

私には、妹がいます。姉の背中を見て育った妹ですので、真面目に育ちました。今でも姉妹が逆のように感じ、しっかり者の妹と適当な姉という関係性で成り立っています。

しかし、私と妹は同じ親から生まれています。同じ環境で、同じ育児を受けて育ちました。多少の違いはあれど、ほとんど同じ影響を受けて育っています。でも、驚くほどの違いがあります。

育児に正解がないのは、全く同じ性格の人間がこの世に存在しないことに共通します。同じことを同じようにしたとしても、受け止め方や考え方は千差万別です。いくら専門家が「これが正しいやり方だ」と言っても、それが正しいかどうかを決めるのは、育児を受けた子どもです。

そして残念なことに、これら育児の「成果」が出るのはずっと先のことです。成果は時に、親を泣かせる結果となるかもしれません。しかし、泣かせる結果となってもそれらを修復するには、育てた時間以上の時間が必要になります。悲しいことにその時には、親も子も歳をとっているのが現実です。

自分のやり方に疑問を持つことは、どの親も経験することです。そんなとき、誰かの意見を取り入れるのではなく、耳を傾ける「余裕」を持つことが大切ではないでしょうか。

不良少女の子どもと誰もが認める真面目な子どもを持つ母は、このように話しています。

「姉は紆余曲折しながらも、お天道様の下を堂々と歩けるように成長した。一方、真面目に生きてきた妹は、ほとんど挫折を経験することなく社会に出た。たくさん嫌な思いをした姉は多少のことではへこたれずに生きていけるだろうと、あまり心配はしていない。しかし妹は真面目に生きすぎて、この先訪れるであろう挫折から立ち直れるか心配で仕方ない。」

まとめ

私自身は、育児の失敗作といえます。社会に迷惑をかけ、人様に迷惑をかけ、親に心配をかけ、そうしてここまで生きてきました。しかし、迷惑をかけたこともそんな状況でも手を差し伸べてくれた人のことも、忘れてはいません。自分にできることを模索しながら、人の痛みに寄り添えるようにと、過去の経験を活かして社会の中で生活しています。

ですが、そんな風に言えるのは、私自身が「普通に」暮らせているからです。そうならずに落ちこぼれていく子どももたくさんいます。

一概に正解、不正解といえない育児だからこその魅力もたくさんありますよね。どんなときも余裕を持ってどっしり構えるのは簡単ではありませんが、大人としてその心意気を忘れないのが、大切なのかもしれません。